最近,若者の物騒な事件が立て続けに起こりました。エリート教育の弊害だ とか,学校は何をしていたのかというような非難がマスコミで取り上げられ, 「こんなことをするような子には見えなかった」という校長先生のコメントが テレビに映ります。 その上,犯人がインターネットをしていたとなれば,これはたちまち「イン ターネットが子どもたちの心を奪う」という論調にすり替えられ,朝のワイド ショーのコメンテーターなる人がもっともらしく「学校でインターネット利用 をすることは問題だ」のような発言をしたりします。 「ちょっと待ってよー…」 という気持ちになるのは,ほりたんだけでしょうか。 これだけインターネットが普及すれば,インターネットを使っている人にも 一定の割合でおかしな人はいるでしょう。だから情報モラル教育が注目されて いるのです。学校は意識してネットワークを利用し,情報モラルをきちんと教 えなければならないのだということで,情報教育に注目が集まっています。む しろ,学校教育がインターネットを正視して来なかったことの弊害です。 でも,ぼくは,学校に突きつけられているもっと大事な問題があるような気 がしてなりません。 すぐに学校が悪いという話になる背景には,教育は学校がやるものだと いう社会の強い思いこみがあるようです。家庭・地域とともに学校教育を行って いこうとする、教育の新しい流れにとって、うれしいことではありません。 英国では,学校への送り迎えは保護者の責任です。日本では登校時に子ども に事故があると学校が責められるでしょうね。日本の学校は,教育に関わるこ となら何でも学校が抱え込んできたという歴史があります。その結果,行事は 次々に増え,忙しいばかりで本質を見失っていることは事実だと思います。 今学校は,「学校でこそやるべきこと」と,「むしろ学校から切り離してい かなければならないこと」を見極め,自己リストラすることが求められていま す。学校内で行われている行事は,1つ1つは必ず教育価値がありますが,今 の私たちに求められているのは,限られた時間と教師数の中で,どれを確実に 行い,そのためにどれをあえて行わないかという,強い方針を持った自己リス トラなのだと思います。 「総合的な学習の時間」の導入を利用し,自分たちの学校のあり方を見つめ, 具体的な策として実現していくことが,移行措置時代の私たちの課題でしょう。 自己改革できない組織は,企業ならとっくに倒産です。学校が開かれ,社会の 目に触れやすくなっている以上,私たちは社会の常識も意識し,自分の学校の 考え方を具体的に地域や社会に発信できないといけないのです。 ・・・今回は,まじめに書いてしまいました。 昼間に書いたのがいけなかったかなぁ。